開花という一幕を終えた桜は、緑へと色彩を移し、木々の隙間から溢れる木漏れ日が、黄華殿《おうかでん》の床を照らす。
新安《しんあん》で赤潰疫が発生したことを受け、世を統治している四つの国 宋長安《そんちょうあん》・朱源陽《しゅうげんよう》・橙仙南《とうせんなん》・青鸞州《せいらんしゅう》が集まる『四国会《よんごくかい》が、橙仙南の宮廷・黄華殿《おうかでん》で執り行われた。
豪華な黄華殿の中にある小さな人工池の中で、黄色の花々が咲き乱れている。一段と上品な香りが、辺り一面を漂い、来る者の鼻腔をくすぐった。
「永憐《ヨンリェン》兄様、いい香りだね」
口を開いたのは、永憐の横で足を崩して座っている、宋長安の皇太子・賢耀《シェンヤオ》だ。その横には、永憐の側近・宇辰《ウーチェン》も端座し、宇辰は穏やかな笑みを賢耀に見せていた。永憐はというと「うん」と小さく頷くだけで、相変わらずの仏頂面だ。
宋長安の皇帝・宋武帝《そんぶてい》は、もう一段上の年長者が並ぶ上座で、橙仙南の皇帝・橙武帝《とうぶてい》と、青鸞州の皇帝・鸞氷帝《らんひょうてい》と和やかに談話している。 かかった雲が日差しを遮り、黄華殿の中が少し暗くなった。 明度を見計らったかのように、この上品な香りを、一瞬にして自国の香油の香りに変える、強者がやってきた。 嗅覚を疑うその如何わしい香りは、妓楼の売女が客寄せに使うような、甘ったるさを秘めており、嗅ぐ者の鼻を麻痺させる。 先ほどまでの、穏やかな香りは一変し、こっそり鼻を覆う者もいれば、気分を害して外に出る者もいたり、はたまた永憐のように、微動だにしない者もいたりと、周囲は異様な空気に包まれた。そんな周りを気にする素振りも見せず、朱源陽の皇帝・朱陽帝《しゅうびてい》は、意気揚々と床を鳴らして、上座に座った。
その後ろでは、護衛の端栄《タンロン》がそれぞれの国の年長者たちに拱手をしている。「さて、とっとと始めようではないか」
四国会の中では最年長の為、傲慢な態度はいつものことだが、今日は遊女のような愛人も連れてきたようだ。
老人が年若い女を見て興奮しているように、朱陽帝は愛人の頭をいやらしく撫でている。何を見せつけられているのだろうか。
下にいる者たちからは、溜息が漏れる。 朱色の衣を纏った変態な老人を一瞥しながら、賢耀は小さく口を開く。「今日も一段と気持ち悪いな。あの狸爺い」
「賢耀殿下。言葉が過ぎますよ」
賢耀の一言に、隣にいた宇辰が優しく咎める。
普段あまり口を効かない青鸞州の皇弟・龍凰《ロンファン》も「見てられない」と、珍しく便乗する。「龍凰兄さんもそう思う?まったく、あの狸爺いは四国会を舐めて…」
「耀《ヤオ》。やめなさい」
低く透き通った声が賢耀の言葉を遮った。
声の主はというと、仏頂面のまま目を閉じて、邪念を取り払うように、心を鎮めている。 賢耀は口を一文字に結んで、正しく座り直す。すると、ざわついていた場を締めるかのように「ゴホン」と、太々しい咳払いが、上座から聞こえてくる。
宋武帝は、辺りが静まり返ったのを見て、先日新安で起きた赤潰疫について話し始めた。「赤潰疫が出たということは、閉山にある玄天遊鬼《げんてんゆうき》の封印が解かれたということ。何かそれに関して知っている者はおらぬか?」
この質問に関して、答える者はいないようだ。
宋武帝は辺りをゆっくり見回して、続ける。 「玄天遊鬼は疫鬼であり、最も恐れた厄鬼だ。今後も各地域で赤潰疫を撒き散らす可能性が高い。それに、ここ数日傀儡の数も異常な勢いで増加している。一刻も早く、この者を見つけ出し、滅殺しなければならない!今までの我々のやり方では、恐らくこの厄鬼を倒すことはできないだろう。今後は、四国が一丸となって、管轄地域の隔たりを無くし、情報の共有や助太刀の協力を得たいと宋長安は考える」「私も宋長安に賛同するよ」
顎髭を撫でながら、橙武帝が言う。
それに続いて鸞氷帝も「私たちも賛同いたします」と話した。「いやぁ〜、話は分かるんだがね、役に立たない者の助太刀は要らんのだよ。例えば、そこの青の衣を纏った者たちとかね」
朱陽帝は、嗅覚だけでなく、人の気持ちを不快にさせるのも得意なようだ。
賢耀の近くに座っていた龍凰は、眉を引き攣らせ、鼻をフンと鳴らす。 そんな弟の顔を見ていた鸞氷帝が、微笑みながら口を開いた。「朱陽帝のお役に立てていないようで、申し訳ありません。勢力を上げて努力いたしますので、ここは穏便に」
「勢力ねぇ〜。もう一人、そこにいる剣豪でも居ればいいんだが」
狸爺いは、凭れる女の髪をくるくると人差し指で絡めながら、永憐を見る。
朱陽帝にやらしい目を向けられた永憐は、すくっと立ち上がり、年長者が並ぶ上座に向かって、拱手しながら言葉を放った。「場所によっては、剣だけでは敵わず、仙術が必要になることもあります。青鸞州の術も大いに役立ち、決して他の国に怠るなどということはありません」
頬に擦り傷が入るような冷風が、朱陽帝の頬を掠ったのだろう。朱陽帝は苦笑いを浮かべ「はは、それはそれは失敬」と、それ以上青鸞州について話さなくなった。
それから、話題は玄天遊鬼の話で持ち切りとなり、変幻自在な疫鬼をどう見つけるか、仙術の何が有効なのか、赤潰疫が起きた際、朝廷はどのようにすべきかなど、一炷香ほど議論を交わした。四国は全ての協議に合意し、桃園の義を結んだ。
議論を終えた後は、さも当然ように狸爺いは下品な遊女を連れて、各国の年長者とは会話を交わすことなく、一目散に帰っていった。護衛の端栄は、尻拭いをするかのように各国の年長者たちに頭を下げ回っている。「あの男は可哀想な奴ね。あんな皇帝の尻拭いなんて。ねぇ、元気にしてた?王国師《ワンこくし》」
煌びやかな袍を靡かせた橙仙南の美しい美女が、手を振りながら、永憐の元に歩いてきた。
誰が見ても目を奪われてしまう程の美人で、近くにいた者たちの視線を釘付けにする。少年の賢耀はあまりの美しい容貌に、目だけじゃなく心まで奪われてしまったようだ。宇辰は相手が誰か分かっているようで、柔らかい笑みを浮かべて拱手をしている。「何だ。新手の変化《ヘンゲ》術か?」
永憐はその者を冷たくあしらった。
近くにいた者たちの目線は、一気に冷静沈着な永憐に向く。「天藍《テンラン》、あんたって奴は。もうちょっと、何か言うことないの?美しいとか、可愛いとか。美人ちゃんとか。ったく。そんなんだから、いつまでたっても冷酷無情だって言われんのよ〜。ねぇ。今回はどう?いい感じじゃない?ねぇ。ちょっと見てる?」
「うん」と素っ気なく返す永憐の代わりに、宇辰が言葉を繋いだ。
「深豊《シェンフォン》将軍。こたびの変化術、大変感服いたしました。素晴らしいです。以前よりも増して、美しくなっていらっしゃいますよ」
ひらひらと袍を揺らしていた深豊は、ピタッと止まり、宇辰の肩に手を回す。
「んっもぉ〜、アンタ!よく分かってる!さすがワタシの宇辰。もう、あんな男根も死にかけてるような男の側近なんか辞めて、私の側近にならない?」
永憐の目尻がピクッと動く。
宇辰の優しい笑みも若干引き攣る。「あら?もしかして…。やだ、もう死んでる?」
誰もが気まずそうに口を噤んでいるが、永憐の男根については、誰もが気になるようだ。それもそうだ。こんな、美しい男が種無しだなんて誰が疑うだろうか。しばらく沈黙が流れ、永憐は氷を割るように、冷たく言い放った。
「死んではいない」
誰もが安堵した表情になった。
「あははははっ!そりゃ良かった!宋長安はまだ滅びることはなさそうだな!おいおい、ちょっと待てよ〜」
深豊は、女から元の深豊将軍に戻り、歩き出した永憐の肩に腕を回した。若干、不届き者な一面のある深豊だが、氷瀑のような永憐が、また昔みたいに塞ぎ込んでしまうのではないかと、これでも友人ながらに気にかけているのだ。
「送るよ、外門まで」「うん」
二人が並んで歩く姿は、なかなかの見ものである。
過去には、剣門山《けんもんざん》の美男子『青藍《チンラン》』と呼ばれ、人気を博していた。 深豊は、壁越しにこちらを覗いている女子たちに気付き、「やぁ」と言って手を振る。 すると『キャー!』と黄色い声援が、門の境内に響き渡った。「相変わらずだな」
「お前がいるからだよ」
深豊は永憐の胸元を軽く叩く。
永憐は黄色い声援には答えず、一行はそのまま門を潜った。「んじゃ、またな。天藍」
「うん、また」
深豊に見送られた永憐たちは、
無事、一行は宋長安に辿り着き、それぞれが持ち場に帰っていく。永憐と宇辰は賢耀を宮殿まで送るため、解放された大きな通りを三人で歩いた。
しばらくすると賢耀が、深豊について永憐に尋ねる。「永憐兄様、深豊将軍とはどんな関係なの?」
「青狐《チンフー》とは、剣門山からの竹馬《ちくば》の友だ」
「ってことは、深豊将軍の剣術も凄いの?」
「まぁ。なかなかの腕前だ」
深豊の剣術は、永憐も認めるほど才を成している。
永憐は昔のことを思い出したかのように、天を仰いだ。「いいなぁ〜。僕もそういう友がいたらいいのに」
賢耀の、寂しさを滲ませた黒い瞳が揺れている。
永憐は察したように、言葉を発した。「耀には私たちがいる」
「……」
「そうですよ。私たちがちゃんといますよ
「……」
賢耀からの返事がない。
何か考え込んでいるのだろうか。 永憐が、尋ねるように賢耀の名を呼ぶ。「…耀?」
「……」
すると、今の今まで元気だった賢耀が突然、勢いよく口から泡を吹き出し、自分たちの目の前で倒れ込んだ!
衝撃的な事実を知ってしまった蘭瑛は、あれから永憐と顔を合わすことがてきず、六華鳳宗へ帰らせてもらえないかと、宇辰を通して宋武帝に申し出た。 事情を知った宋武帝は、至急紫王殿に来るように蘭瑛を呼び寄せ、二人で話しをすることになった。 完全に正気を失った蘭瑛を見るやいなや、宋武帝は気を利かせ、今まで見たことのない豪華な花茶を差し出した。「呼び寄せて申し訳ないな。少し外で話そうか」「……は、はい」 随分と涼しさを感じる夜に、紫王殿の庭では蛍がふわふわと光り始めた。 外のカウチに腰を下ろし、宋武帝は蛍の光を目で追いながら静かに口を開く。「いずれはきちんと話さなければならないと思っていたのだが……永憐のことで、君を酷く傷つけてしまって申し訳ない。全ては私一族の責任だ。今更許しを乞うつもりはないが、当時、剣門山に所属していた永憐が、個人的な意思で君の父上を殺した訳ではないことは、どうか分かってやって欲しい。あれは、私の父上が理不尽に下した命令だったのだ……」 宋武帝は物寂しく空を仰いだ。 その横顔がどこか永憐に似ていて、蘭瑛はふと目線を逸らし、宋武帝の言葉を待った。 「永憐とは異父兄弟なんだ。この事実を知ったのは、十年ぐらい前だろうか。あいつは幼い倅を、祝言を控えていた妻の変わりに助けてくれてな……。せめてもの思いでここに呼んだんだが、少し気になるところがあって。ほら、私と顔が少し似ているだろう? だから、あいつの出自をこっそりと調べさせたんだ。そしたら、永憐はあの伝説の剣豪・冠月と母上の間に授かった子であると知って、それはそれは驚いたよ。私は永憐を弟だと思っているんだが、あいつは、自分を物凄く卑下な人間だと思っているらしく、自分は私の配下でいいと、皇弟として自分の立場を絶対に認めようとしないんだ」 何一つ自分のことを話さない永憐に、そんな秘密があったとは誰も知る由もない。 宋武帝は飛んでいる蛍を素手でそっと掴み、蘭瑛に見せながら続けた。「そんなあいつがある日突然、君を連れてきた。色欲も断ち、女の話に一寸とも触れようとしなかったあいつがだ。不器用で言葉足らずな奴だが、君には何か思うところがあったんだろう。誰よりも君のことを考えていたからな」 それは分かる。いつだって側
美しい月夜は儚げに消え去り、夢が覚めていくように二人の元に太陽が昇る。 「蘭瑛、朝だ。起きろ」 「…んーっ。ふぁい」 蘭瑛は欠伸をしながら上体を起こす。 永憐から寝巻きを渡され、寝台から降りて衣をさっと着る。 昨晩のことは途中までしか覚えておらず、途中から疲れ果てて眠ってしまったようだ。 「昨日はすまない。加減を忘れてしまっていた…。身体は大丈夫か?」 「…はい。大丈夫ですよ。私、途中で寝てしまったみたいですね。すみま…」 「せん」と続けようとした刹那、永憐に力強く抱きしめられた。 「嫌いにならないでくれ…」 「…ど、どうしたんですか?急に。永憐様を嫌いになる訳ないでしょう」 永憐は失うのが怖いといったような、どこか不安げな顔を蘭瑛に向けた。 今日から仙術の強化稽古が始まり、しばらく会えなくなると聞かされたが、稽古が終わったらまた会う約束をし、優しく口づけを交わした。 蘭瑛は隣の部屋に戻り、身支度を整えようと、寝巻きを脱いで鏡を見た。すると、首から下の上半身のありとあらゆる場所に、口づけの印を付けられていることに驚愕した。 (あれから、たくさん口づけされたんだっけ…。どうしよう…この無数の跡。何で隠そう…) 蘭瑛はとりあえず、葯箱から包帯を取り出し首元に巻き付けた。医局のオカマ医官に何か言われるかもしれないが、適当に遇らえば問題ない。蘭瑛は冷静さを保ちながら、医局へ向かった。 医局に到着すると案の定、オカマ医官二人に詰め寄られる。 「阿蘭、どうしたのよ?!その傷!ちょっと見せてみなさい」 「一体何をやったのよ…」 「だ、大丈夫だから!本当に直ぐ治る傷だし、二人の心配には及ばないから」 江医官と金医官は、目を細めて蘭瑛を一瞥する。 「阿蘭、また誰かに何かされたんじゃなくて?」 「ったく、女の首元に傷を負わすなんて、どういう神経してんのよ!もし男だったら、男根の先にこれを差し込んでやるんだから!」 金医官は、薬草を混ぜる先の尖った太い銅の棒を光らせた。これは、永憐にされたなんて口が裂けても言えないと、蘭瑛は思わず苦笑いを浮かべる。 「本当に大丈夫だから。六華術を復活させる為に色々やっちゃって…。それで」 「それで、六華術は復活したの?」 江医官に
もう逃げられないと意を決して、蘭瑛は急いで湯浴み処へ向かい、簡単に湯浴みを済ませた。 半乾きの髪を靡かせ、急ぎ足で藍殿へ戻る。 蘭瑛は永憐の部屋の扉の前で「ふぅー」と呼吸を整え、蝋燭の光が漏れている薄暗い奥の部屋に足を踏み入れた。 中に入ると、寝台の上で腰を下ろし、長い髪を垂らした寝巻き姿の永憐が待っていた。 「来たか」 「お待たせ…しました…」 蘭瑛は固唾を飲み、恐る恐る永憐の元へ歩み寄る。 永憐は真顔で、蘭瑛に向かって一言投げかけた。 「覚悟はあるのか?」 そう言われた蘭瑛は、その場で立ち止まった━︎━︎━︎。 決して覚悟がない訳ではない。ただ理由を話さなければと蘭瑛は六華術を回復させる為に、このような事を口走ったと話した。 「ならば、術の為にしたいということか?」 「いや、そ、それだけでは…」 蘭瑛はそれ以上何も言えず俯く。 永憐は間を置いて、もう一度問うた。 「どんな理由があっても、後悔しないか?」 蘭瑛は永憐の事を心から愛している。 いずれは夫婦の契りを交わしたいとさえ思っている。 術が回復することもそうだが、一番は永憐と口づけ以上の結びつきを得たいと心のどこかでは思う。そこに迷いや後悔はない。蘭瑛は心を決めたかのようにハッと顔を上げ、自分の衣の腰紐をしゅるっと外した。 「…しません。何があっても」 そう言いながら、蘭瑛は衣を少しはだけさせ、寝台の上へ登る。 そして、足を伸ばして座っていた永憐の上に跨り、永憐の目の前で衣を完全に脱いだ。 艶やかな肌を見せられた永憐は、蘭瑛の腰にそっと手を回し、蘭瑛の顔に自ら顔を近づけた。 「本当にいいんだな?」 「…はい」 息をする暇もなく、蘭瑛の唇は瞬く間に塞がれた。 永憐は何度も優しく向きを変え、蘭瑛の乾いた唇を湿らせていく。永憐の力強い舌遣いで閉じていた口をこじ開けられ、何度も舌を絡め取られた。舌を這わせ合うたび、水が弾くような音が部屋中に響き、鼻から漏れる荒い息が熱く交わる。 露わになった胸を何度も揉まれ、永憐の細長くて力強い指先で、先の突起を何度も弄られた。 身体全体に体験した事のない電流が走り、蘭瑛は我慢できず「んんっ」と思わず声を漏らす。唇が離れ、互い
それから、今までの輝かしい穏やかな橙仙南の色は消え、朱源陽の武官たちは橙仙南の庶民たちを蔑ろに扱うようになり、逆らおうものなら直ちに打首にされるという理不尽な内乱が勃発した。 橙仙南の一部の軍は朱源陽の傘下に入る者もいたが、深豊《シェンフォン》率いる軍は主に宋武帝の配下に身を置き、永憐たちと並ぶ形で桃園の義を交わした。 朱源陽の理不尽な要求や暴力が日に日に増していくことを懸念した宋武帝は、橙仙南の難民たちを宋長安へ避難させた。宋長安に住む人々の人柄は他所者を嫌う性格ではない為、難民たちとの間には争いや弊害などは生まれず、互いを尊重しあう形で生業を保つことができた。 秋めいてきた夕暮れの下で、蜻蛉の美しい複眼が、飛び回る害虫のハエを捉える。 瞬きをしたほんの僅かの間に、ハエは蜻蛉の口元で砕かれ、もう一度瞬きをした後にはもうハエはいない。 その卓越した動体視覚と俊敏さを駆使して、獲物を一瞬にして捕える。さすが勝利の虫だ。 その様子を窓越しから見ていた宋武帝は、永憐と深豊を紫王殿に呼び出し、向かい合っていた。 何を言われるのか大体想像のつく二人は、出された茶を啜りながら宋武帝の言葉を待つ。 「蜻蛉のようにならねばならんな…」 宋武帝はぼそっと独り言を呟いた。 そして目線を二人に戻し、続ける。 「今後のことについてなんだが…。いつ、朱源陽の矢がこちらに飛んでくるか分からない。いつでもその戦火が飛び込んできてもいいように、お前たち全員が持つ仙術の強化を図って欲しい。それに伴い、宋長安管轄の剣士たちも各方面から呼び寄せることになった。お前たち二人が師範となり、全体の底上げを頼む」 永憐と深豊は、同時に頷き『御意』と返事をした。 力強い二人の返事を聞いた宋武帝は、顔を緩ませ穏やかな表情を向ける。 「お前たちが居れば、私に怖いものなどない」 「全力でお守りします」 「橙仙南を代表して私も…」 永憐の後に続けて、深豊も誠意を表すように言葉を繋げた。 一方、蘭瑛のいる医局では環境に慣れず体調を崩す橙仙南の者たちが多く、問診に追われていた。 「食欲がなくて…」 「気持ちが塞ぎがちで…」 「涙が止まら
「何故お前がここにいる?」 「おっと、これはこれは王国師殿。いやぁ〜、物凄い霊気を感じたので様子を見に来たんですよ。そしたら、あなたに出会した。何か特殊な霊気でも出されたのですか?」 目の前にいる端栄は先程会った端栄と同じだ。 しかし、感じた違和感をどうしても拭えない永憐はまた尋ねる。 「私ではない。剣先を光らせたのはお前か?」 「はて?私はそんな物騒なことはしませんよ。誰かと勘違いなさってるのでは?」 確かに感じた玄天遊鬼の霊気。今はパタリと消え、何も感じない。端栄が続ける。 「まぁ、ここは妖魔が頻繁に出没しますから気をつけてください。あなたとやり合って腕を無くしたまま朱源陽に帰るわけにはいきませんから、今日はあなたではなく、こちらの方に」 すると突然、端栄は蘭瑛に向かって瞬間移動するかのように飛び出し、永憐の隣にいた蘭瑛の身体を軽く突いた。 蘭瑛は急に眩暈を起こし、足元から崩れ落ちる。 「おい、蘭瑛!しっかりしろ!貴様!蘭瑛に何をした?!」 永憐は珍しく声を張り上げ、永冠の先を端栄へ向ける。 「彼女を抱えながら私と戦うのは無理でしょう。彼女の医術は素晴らしいと、玉針経宗の医家が言っていましたからね〜。術滅印で六華術を封じてみました。これで、あなたが今深傷を負っても彼女はあなたを救えない。気をつけてくださいね。それでは」 端栄が瞬時に消えた途端、黒い靄が周囲に広がり永憐の透き通った視界は瞬く間に遮られた。その靄から幾度となく屍が溢れ出し、永憐は意識のない蘭瑛を抱き抱え、蘭瑛が嵌めている翡翠の指輪に更なる強力な守護術をかけた。そして探知術を同時に発動し、永憐は全身に駆け巡る全神経を尖らせ永冠を振るう。何度も袍を翻しながら屍を次々と殺していくのだが…。 しばらくすると、驟雨が永憐の足元を濡らし始めた。 蘭瑛の頬にも驟雨が落ち、きめ細かい白い肌を伝って滴り落ちていく。 最後の屍を斬ろうとした刹那、突然黒い靄が消え、視界が明るくなったと同時に鋭利な刃を持つ鴛鴦鉞が永憐と蘭瑛を目掛けて飛んできた! 永憐は永冠で同時に躱したが、視界の眩しさに耐えられず、もう一発の鴛鴦鉞に気づかなかった。
永憐たちが橙剛俊の宮殿内に着くと、先に来ていた宋武帝と橙剛俊が激しく口論していた。 「兄上がこのような惨虐に見舞われたというのに、どうして平然としていられるのだ?!」 「奴は死ぬべきして死んだんだ!私には関係ない!」 橙剛俊は憤慨し眼球を赤くして捲し立てる。 宋武帝も額に青筋を浮かべて、今にも殴りかかりそうな衝動を抑えながら拳を振るわせていた。 「お前、何か企んでいるのか?!」 「はっ。何を企んでいようと私の勝手だ。あんたには関係ない。今まで散々あいつに振り回され続けたんだ!今こそ橙仙南は自由になるべきだろ!あんたこそ橙仙南を心配してる場合か?あんな奴を心配する前に、自国の心配をしたらどうだ?倅を残してきたんだろ?大丈夫なのか?」 宋武帝は遂に堪忍袋が切れ、橙剛俊の顔を思いっきり殴った。橙武帝が今までどれだけの功績を残し、橙仙南の繁栄を守ってきたか。四国会の統治を守ってくれたのも橙武帝がいたからだ。 橙剛俊は床に伏して赤く腫れ上がった頬を摩る。 「お前とは桃園の儀を結べそうにない。お前が誰かと手を組みその者たちの所へ行くのなら勝手にしろ。しかし、橙武帝を侮辱するような真似は許さない!覚えておけ!」 そう言って宋武帝は踵を返す。 すると橙剛俊は唇を震わせながら、宋武帝の背中に向かって叫んだ。 「あんたこそ、これからどうなっても知らないからな!そこにいるお前らも出て行け!」 ずっと様子を伺っていた永憐の元に宋武帝が来る。 「永憐。私は先に帰る。頃合いを見て帰ってこい」 「分かりました。私たちもここを出よう」 永憐たちは宋武帝の後に続き、救いようのない愚か者を置いて宮殿を出た。 先に帰る宋武帝に宇辰が護衛として付き添うことになり、永憐と深豊は二人を見送る。そして、歩きながら深豊が口を開いた。 「まったく、どうなっちまうんだよ…これから」 深豊は溜め息を吐きながら、門の近くにある石畳みの階段に腰を下ろす。 永憐は何も言わず、遠くを見るように目線を上げて空を仰いだ。永憐の碧色の瞳には雲の模様が浮かび、わざと一抹の不安と恋慕を掻き消しているようにも見えた。 するとそこに、橙剛俊の倅・橙風宇が一人、日傘で顔を隠す様にしてやってきた。 「兄様方にお話しがご